こんな経験はありませんか?
誰かに対して、親切に手助けをしたのに、それを当たり前のように受け取って感謝されなかったり、それどころか無碍にされたり、都合よく利用されてしまったり。
もちろん、見返りが欲しくてしたわけではないですが、このような扱いを受けると、折角の親切が無駄になって、むしろ自分の立場を危うくするきっかけになるなど、大きな損をしたと悲しむことになります。
こんな経験をすると「もう二度と、誰にも親切をしたくない」と思ってしまうのではないでしょうか。
今回は、そんな「親切な行いをしているのに、損をする・舐められてしまう」ということが多い人に、改善する方法をご紹介します。
1、ヒントは仏教にある!
私は仏教の高校の出身なのですが、そのお陰もあって、仏教が好きです。お経を読んだり、座禅をする授業があって楽しかった思い出があります。
だからというわけではないのですが、仏教の教えには親近感を持っています。
日頃から信仰心を持っているわけではないですが、カジュアルな感覚で身近な宗教として捉えています。
そんな背景もあって、仏教の言葉には役に立つ言葉が多く、私自身も今も勉強中です。
よく考えてみると、そもそも、そんな「親切にしてくれた人を馬鹿にしたり、人間を都合よく利用しようなんて犯罪者みたいな人間」のことを、お釈迦様は許さないよな、と思いました。
仏教の教えは弱者に優しく手を差し伸べて「がんばろうな」と声をかけてくれるものばかりです。
2、親切=布施
人に親切にすることを、仏教の言葉では「布施」と言います。お寺などに納めるお金も「お布施」と言いますよね。
布施は大きく分けて2つあり
財施…お金や物、行動、時間などを施すこと。
法施…仏法を説くこと。
となります。このうち、誰かに対して親切にすることは「財施」に含まれます。もうひとつの「法施」は、相手を選ぶことなく誰にでも仏法を説いてよいことになっています。
さて、私たちは真に心からの善意によって誰かに親切にしているわけですが、実はこの「財施」という布施は相手を選んで行わなければなりません。
3、三福田(さんふくでん)
では、どのような人に対して財施を行えばいいのでしょうか。
これについても、しっかり決まりがあります。
三福田(さんふくでん)と言って、三つの田(たんぼ)に例えて表しています。これは、幸福が生じる良い功徳の種をまくにふさわしい田んぼ、という意味があります。
悲田(ひでん)…本当に困っている人。被災した人や、手助けを必要としている人。
恩田(おんでん)…御恩を受けた人。親や先生など。
敬田(きょうでん)…尊敬できる人。
このような人には、進んで財施を行うと良いとされています。
私たちの善意は、田んぼの肥料です。この肥料を、どの田んぼに与えるか、ということがポイントとなります。良い田んぼに与えれば作物が収穫できますが、悪い田んぼに与えると、悪いものを収穫してしまうことになります。
確かに、誰彼構わず親切にして、親切にした相手が犯罪者だったら、犯罪に加担してしまったことになります。
見知らぬ募金箱にお金を入れてしまって、それが悪い団体の運営資金になっていたら、怖いことになりますよね。
きちんと相手を見極めて「誰に親切をするか」ということが、とても重要です。
4、間違った親切
もし親切にしたときに、舐められたり、都合よく利用されたりして、ひどく傷ついてしまったとしたら、それも経験となり学びとなります。
人は未熟なので、誰がこの「三福田」に該当するか、経験の上で見極めなければならないからです。
つまり、これらの経験は損ではありません。
むしろ、人間の厚みとなり、人生の糧となります。
でも、これらが「対象を間違った親切である」と気づけたのであれば、これからは慎重に相手を選び、自分の大事な時間やお金や手間をかけなければなりません。
「いいや、自分は舐められても、目の前で困ってるような素振りをされたらほっとけないんだ。見極められないから仕方がないんだ」と思わないでください。
なぜなら、これは仏教の教えのひとつだからです。
誰彼構わず親切を施してはいけない、というお釈迦様の教えです。
この教えを守るということは、時間を守らない友人との待ち合わせは待たなくてもいいですし、暴力をふるう彼氏にお金を貸す必要はありませんし、仕事を覚えようと努力しない後輩を手伝う必要はありません。
これはあなたが薄情なのではなく、お釈迦様の教えを実行していることになります。
なので、安心して「ごめんね、親切にはできません。仏教の教えを守っているだけです」とその場を立ち去りましょう。罪悪感は持たなくて大丈夫です。
限られた肥料を大事に
自分のことを大切にできない人がいます。
このような人は「自分のものだから好きに使っていいだろう」とか「自分を粗末に扱って何が悪いんだ」と思っているかもしれません。
しかし、仏教の教えという観点から言えば、私たちに与えられている時間・労力・お金・モノなどは、お釈迦様から借りているものであって、使い道を託されているものです。
しかもこれらは、すべて限りがあります。
限られた量の肥料を、どの田んぼに与えるか、ということが私たちに委ねられている選択肢です。
「自分のものだから好きに使っていい」のではなく「お釈迦様から借りている肥料をより良い田んぼに分配する使命を持っているんだ」と思うことによって、慎重に行動することができるのではないでしょうか。
あなたは託された大事な肥料を、どの田んぼに与えますか?
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